腰巾着と野蛮な運動 1

 埃塗れの綿のような雨雲が空に浮かんでいた。梅雨前線停滞中、小粒の雨が弱々しく窓を叩く。
「ぷっ、ぷっ、ぷっ、ぴーん、午前九時五十三分十秒をお知らせします」
 ぼくは受話器を置いた。電話の時報を正確だと信じている。もし、時報がずれていたとしても、ぼくは時報を信じるだろう。いつも身につけているGショックよりも。
 部屋のテレビはNHKを垂れ流していた。石川県のどこかの漁村のおばあさんが、なまこの卵巣をペナント状に干す作業が流れている。橙色の卵巣が紐の上にかけられ、三角形に形を整えられていく。見ているだけでイライラする手間のかかる作業。おばあさんがゲートボールをする時間も惜しんで丹誠こめて作り上げたそれは、そんな田舎の苦労など知らない都会の金持ちどもの口に行くのだろう。生きたなまこを素手で触ることもできない奴らが、これは石川の珍味なんだよ、潮の香りがしておいしいね、なんて言いながら食べるのだ。
 嘆かわしい。
 ぼくは、いつのまにかテレビに向かって、怒りを発していた。どうも、最近、怒りっぽい。世の中の矛盾が見える年頃になったのだろう。
 作戦は十時に決行される。
 前にコンサートのチケットを電話予約で取ったときと、同じ行動をしていた。電話で時報を聞いて、テレビをNHKにして十時が来るのを待つ。だが、緊張の度合いはそのときとは比べものにならない。
 時間を潰すためにタバコに火を点けた。壁の薄い学生マンションのワンルーム、腹が立つのでテレビのボリュームを下げた。ぼおおんと、となりの住人がドライヤーを使っている音が聞こえる。
 このタバコを消す頃には作戦開始時刻になっているのかもしれない。
 そう思った瞬間、息が苦しくなった。胸が重い。目に涙が溜まり、身体中が緊張によって熱せられる。
 昨日からそうなのだ。作戦の決行予定日を川岡の有無を言わせぬ口調で知らされてからずっと。
「明日の朝十時にやる。よろしく頼むよ」
 授業の合間、二号館の自動販売機の前の喫煙所で川岡は、なんの前置きも相談もなしに小声で言った。まわりには同じ授業を受けていた名前の知らない男が三人、タバコを吸っている。
 川岡の右腕、ナンバー2、と組織内の自分の位置を認識していたぼくは、川岡が相談してくれなかったことに気を落としたが、自分で決めなければ気が済まないワンマン的な性格が彼にカリスマ性を与えているのも事実だったので、ぼくはその決定には口を挟まなかった。
「わかったよ。他の連中には伝えた?」
「いや、まだだ」
 ぼくは、ほっとした。川岡がその決定を最初に伝えたのがぼくだということに。
「しかし、急だねえ、驚いたよ。みんな、急だから驚くだろうなあ」
「ゲリラだから急にやんないとな。信長の桶狭間と同じさ」
 三人組の中でいちばん背の低い男が、川岡のゲリラという言葉に反応してこちらに一瞥を投げたが、だからといって何もない。川岡は気づいてないようだったし、男はまた自分たちの話に戻っていた。
 ぼくはそれから同胞に作戦の決行を伝え、ひとりひとりの役割を確認した。
「ダサい糾弾一斉作戦」、それが作戦ネームだった。作戦内容は、十三人の同胞全員が同じ日の同じ時間に一斉に十三の編集部に「差別語を使われては困る」と電話するものである。昨夜のぼくは部屋の電話機を見るたびに緊張でからだを震わせていた。
 夜は足がカッカして、ほとんど眠れなかった。目を瞑れば作戦に失敗する自分の姿ばかりが浮かんで、泣きそうになって唇ばかり噛んでいた。
 それでもいつのまにか眠っていたようで、気がつけば朝の五時、ここ一年はしたことのないような早起きで目醒めだけはやけにいい。だけど、胸は空気を受けつけないほど苦しかった。いっそのことタイムマシーンをせっせと作ってすべてが済んだ明日へワープしたくなる。しかし、作戦の決行からは逃げられず、時間はじわじわと迫る。
 この緊張感はいやなものだ。この頃、よく体験する。
 この緊張感はぼくの十九年の人生のうちでは、ほとんどが高校を卒業してからの一年強の時期に体験したことが多かった。この緊張感は、たとえば小学校の学芸会で木の格好をしてただつっ立って木の役をする劇の本番を待つ、というカチンコチンの緊張感とは種類の違う。そういうカチンコチンの緊張は、ぼくの十九年間の人生では記憶がおぼろげになりつつある小学生時代までのいわゆるガキの時期に多かった。それに比べ、いまぼくが味わっている緊張感はバクバクである。何か新しいものに対するおびえがあって、その新しい体験をする寸前におびえが出て心臓がバクバク唸り、息苦しい感じなのだ。はじめてひとりで銀行の通帳を作りに行ったとき、はじめて車の免許証を貰いに試験場に行ったとき、はじめてアルバイトの募集広告を見て電話をかけたとき、そのアルバイトの面接に行ったとき、そんなはじめて何かをするときに感じる独特の緊張感なのだ。
 電話の前で時計を見つめている同胞たちも、みんなそんな緊張感を味わっているのだろう。
 焦ってタバコを吸ったため、タバコを消してもNHKのテレビは石川のなまこを映していた。ややあってから、エンディングテーマが流れる。テレビの音をミュートして、ぼくは受話器を持った。十代の軟派な男たちの読むファッション雑誌『キューン』を手に取り、一八四を押してから裏表紙の端っこに載っている出版社の電話番号を押す。ちょうどテレビ画面の左上に十時の白い数字が現れ、男性アナウンサーが「十時のニュースです」と言っているのが音を消していてもはっきりわかった。


 呼び出し音が二回鳴ってから、女性の声がした。受話器を持っている手はじっとり汗ばんでいる。
「あの、わたくしあるマイノリティの団体に所属している石崎というものですが、今月号の『キューン』で、人権的に見てどう見ても差別的と取れる箇所があったので、できれば訂正してほしいと願い、電話をさせていただいたのですけれど」
 マイノリティの団体、と言った瞬間、電話口の女性が緊張した。それに反応して、ぼくのからだが震える。めちゃくちゃにびびってしまう。
「しばらくお待ちください。担当者に変わります」
 声のトーンを一段落として女性は言った。それから、電子音のグリーンスリーブスが流れる。保留音、いやな名前だ。
 受話器を持ったまま、深呼吸する。心はちょっとも落ちつかない。他の連中も同じような電話を各出版社のあらゆる編集部にかけている。ぼくが組織のナンバー2を維持するためにも、失敗は許されない。
 保留音の間にNHKのニュースは終わったようだ。テレビは料理番組をやっている。時計を見てないし、時間の感覚も緊張のおかげで麻痺しているせいで、どのくらい待たされているかはわからなかった。少なくとも三分以上はグリーンスリーブスを聞かされたようだ。三分と言えば、カップラーメンができあがる時間である。
 ぼくは次第にいらいらが募ってきた。受話器でひとりで心細く担当者なる人物を待つのはつらい。しかし、そんなことお構いなしにぼくを出版社、そして差別的表現を使用した『キューン』編集部は待たせているのだ。きっと、保留音の向こうでは何人かの人間が、変な電話にどう対処すればいいのか、早口で囁きあっているのだろう。担当者を誰にするのか押しつけあっているのかもしれないし、どこに差別的な表現があったか、今月号の『キューン』を見直しているのかもしれない。
 カップラーメンが伸びるほど待ってから、やっと保留音が途切れた。
「大変お待たせして申しわけありませんでした。わたくし、『キューン』の編集長をしております太田と申します。何か今月の小誌にご指摘があられるそうで……」
 受話器からは中年の声、なんと、いきなり編集長のご登場である。太田編集長は、ぼくの声が若いのに驚いたようだが、それでも丁寧な言葉遣いをした。ぼくは改めて、マイノリティや人権という言葉の強さを感じる。
「そうですね。でも、今月号だけの話ではないんです。『キューン』さんがよく使われている言葉に非常に根強い差別を認める言葉がこれまでもずっとあって、もういい加減この言葉を使用するのはやめていただきたいなと思っているんですが」
「その言葉とは?」
「えっと、ですね、それは」
 訊かれているのだから、ずばりこれですと答えてしまえばいいものを、回りくどく言いたくなって、女に告白するときのように言葉が出なくなる。
「わたしたちは、軽い雑誌と見られるかもしれないですけど、ちゃんと校正をして再三の注意を払っているつもりなんですがね」
 ぼくがどぎまぎしているに気づいたのか、太田編集長は不意に冷たい声になった。仕事の邪魔されても困るなあ、とでも言いたげな不服な声。やはり、若さは隠せない。中年の男がいまにも若者を怒鳴りつけるような顔をして受話器を持っているのではないかと想像するだけで、ごめんなさいと言って受話器を置きたくなる。
 だが、逃げてはダメだ。ぼくはいままで学習してきたんだ。自分たちがどのように差別され、苦しんできたかを。
 大学で最初に知りあった人間は、東京生まれの男だった。彼に出身は山口ですと言ったら、それだけでぼくより優位に立った顔をされた。何をやっても、石崎はしょせん山口だからなと言われ、ぼくは彼と打ち解けられなかった。
 一年の夏休みの帰省前、学生課に学割の申請に行くと、そこの職員から、のんびりしたところに帰って東京のスピードについていけなくならないようにね、と底意地悪く言われた。
 ゼミで顔見知りになった神奈川の男の家へ遊びに行ったとき、そこの家のまわりの雰囲気があまりにもぼくの実家のそれと似ていたので、そう言うと、神奈川の男は困惑した顔で、山口と同じにされちゃったよと言った。
 ぼくは自分が受けた差別を思いだした。田舎者、ただそれだけの理由で劣った人間だと決めつけられていたあの頃を。
 ふつふつと使命感が沸き起こる。これはきちんと取り合って貰わなければいけない問題なのだ。マスコミが社会に果たしている役割は大きい。だから編集するときはちゃんと考えて、これから先、こんな悪しき価値観を抹殺して貰わなければならないのだ。
「あのですね、今月号で言いますと、まずモノクロページの特集『女子高生に聞きました。彼氏をダサいと思ったその時』ですね、このタイトルから差別的ですよね」
 ぼくの声は使命感と正義感で自信に満ちていた。
「どこがですか?」
 怪訝そうな太田編集長の声、でもぼくはへこたれない。そんなこともわからないからあんたの雑誌は差別表現満載なんだよ、と激しく怒鳴りたくなる。だが、相手に向かって発言するとき、ぼくらは暴力的であってはならない。戦争がいやだから、闘争がいやだから、実力行使がいやだから、ぼくらは話し合いを選んだのだ。
「そちら、と言いますか、まあ、一般的によく使われてる言葉ですが、ダサいという言葉ですね。これはよくないですよ。もともと、この言葉の語源は、田舎の音読みダシャから来ています。田舎、つまり地方の人口の少ないところに在住しているかもしくは出身者ですね、彼らは田舎者と言われて差別されています。そうですよね?」
 太田編集長の言葉がつまった。咳とも鼻息ともつかない低い声が、短く断続的に聞こえる。ときどき、舌打ちも混じっている。
「うーん、差別と言うほどではないけれど、田舎の子に田舎者と言うことはありますね」
「そういう、差別をダサいという言葉は認めてると思うんです」
「しかし、わたしも地方の人にそう言ったことがこれまで何度となくありましたが、別に差別しようとか、そんな悪意があって言ってたわけではないし、そういうことを言っている他の人もそういう気持ちはないと思うんだけど」
 太田編集長の言葉が横柄になってくる。彼には、ぼくが消費者という立場を好き勝手に利用しているクレーマーに見えるのだろう。だけど、こっちには信念がある。学習がある。
「そういう気持ちがないから、差別じゃないですか。それは差別があたりまえになってる危険な状態なんですよ。あなたは、人口の少ない地方の在住者や出身者は差別されるのがあたりまえだとでも考えているんですが?」
「いや、そんな飛躍的に考えられても困るんだ。おれはそういうことを言いたいんじゃなくて、田舎の人にそういうのは、なんというのかな、スキンシップというかコミュニケーションというか、一種の冗談なんですよ」
「言うほうは冗談かもしれませんが、言われるほうは傷ついているかもしれないじゃないですか。もし、差別的な意図はなくても、今月の『キューン』にはダサい男は女性にモテないととれるように書いてある。結局、田舎臭い男はダメだと言ってるじゃないですか」
「ちょっと、待ってください。たしかに語源では、ダサいという言葉は田舎者という意味かもしれませんが、我々が使っている意味でのダサいと田舎者では意味が違うよ。実際、都会育ちのダサい奴もいます」
 太田編集長は諭すようにぼくに言った。
「だからって、かつては地方出身者や在住者を差別する言葉だったものを使ってもいいとは限らないでしょう。これまでどころか、現在も人口の少ない土地で生まれたり育った人たちは、いわれのない差別を受けているわけです。その現実、歴史的経緯に目を向けないで、いまじゃ差別する言葉じゃないから使ってもいいってのはないでしょう。違いますか?」
「わかりました」
 太田編集長はうんざりしているような声をあげた。急に言葉尻が丁寧になる。
「わたくしたちの認識の甘さというのも原因にあるかもしれません。申しわけありませんが、考える時間をいただけませんか?」
「考えて結果が出たら教えてくれますか?」
 太田編集長が電話を切りたがっているのは見え見えだった。このまま、この電話をうやむやにされてはかなわない。
「はい、必ずお伝えします。それは約束します。それでは電話番号を教えていただけないでしょうか?」
 ぼくは自分の電話番号を伝えた。用心深く番号非通知で電話したが、一度話してみれば警戒心はなくなっていた。
 太田編集長は、雑誌を作っている上で反響があるのは嬉しい、その上間違っていることを指摘してくれるのはありがたいとありきたりな礼を述べて、電話を切った。
 とりあえず、話し合うらしいから成功だな、いきなり回収するとこなんかそんなないだろう、とぼくはひとり悦に入った。
 午後からは各人の作戦の成果の報告会がある。胸を張って行けそうだ。


 報告会は、「地方出身者の差別をなくそう学生連合」のベースである、大学内のクイズ研究会の部室で行われた。「地方出身者の差別をなくそう学生連合」とはぼくたちが所属している組織の正式名称で、普段はその略称の「地差連」で呼んでいる。なぜ、クイズ研究会の部室がベースかというと、地差連のリーダーである川岡が三人しかいないクイズ研究会の部員のひとりだからである。ちなみに、テレビの視聴者参加型のクイズ番組が減っているおかげで、クイズ研究会本体は活動していない。
 コンクリートの壁に囲まれた窓のない六畳ほどのその部屋に、コの字型の机が置かれている。十三人の同胞がそこに座っていた。めずらしく全員が揃っている。
 座る場所はみんな決まっていて、いちばん奥に川岡が座り、その向かって左がぼくだ。川岡の右となりに座っている松井靖子という髪の長い女が司会をやる。
「それでは、本日十時に決行いたしましたダサい糾弾一斉作戦についての成果報告をお願いします」
 まず、はじめに発表したのは青森の人口千五百人の村出身の山田からだった。山田は図体が小さい割には大声を出す男だ。
「自分が担当した編集部は、予想以上に好感色でした。おそらく、出版社が左翼系だからだと思います」
 ほとんどの同胞が自ら志願して地差連に入ってくるのに、山田は珍しく川岡に口説かれて地差連に入った。川岡の期待は大きい。
「さすがに回収とまではいきませんでしたが、以後気をつけるのと、謝罪する意志があることを表明してくれました」
 山田は東北の出身者に似合わず、流暢な標準語を話す。ここまで流暢に話せるようになるには、多大なコンプレックスが必要だ。
「あとは、先方が後日、会ってくれるそうですから、そこできちんと謝罪を要求しようと思います」
 川岡はむずかしい顔をして聞き入っている。ぼくは山田に負けたと思ったが、山田の場合は左翼系の言論誌、ぼくは軟派な男性ファッション誌なので、しようがないと川岡は判断してくれるだろうとも思った。
「わかりました。なかなかいい結果で、山田くんの頑張りは評価に値すると思います。それではつぎに、竹内さん、お願いします」
 竹内は、川岡やぼくよりひとつ年齢も学年も上の同胞だ。身長が一八〇センチ以上あるでかい男で、鰓の張ったごっつい顔をしている。
「ぼくが糾弾したんは、女性週刊誌です。この本に、ダサいという表現が四回使われてたんと、ついでに女性タレントのインタビューで、何もない田舎には住めないという発言があったのでこれにも追求しました。反応は残念ながらあきませんでした。山田くんとこの編集部とちゃうて担当者がめっちゃバカでした」
 竹内は、山田とは対象的に地元の方言をこだわって使っている。関西方面の出身者によくあることだ。
 率直に言って、ぼくも川岡も関西の出身者はあまり好きではない。地方出身ということで劣等感を感じるよりも、優越感を持っていることのほうが多い気がするからだ。彼らが東京で喋る関西弁には、東京がなんぼのもんじゃいという関西優越思想が潜んでいる。それは、つまり関西以外の地方を差別しているってことだろう。だから、竹内が関西弁のニュアンスのこもった声で地差連を訪ねてきたとき、ぼくらは戸惑った。
「あの、地差連さんの考えかたに同意したんで、仲間に入れてくれまへんか?」
 そのとき、ベースにいたぼくと川岡は互いに顔を見合わせた。関西の人には遠慮していただいてます、とは言えない。それでは、こっちが関西出身者を差別していることになってしまう。
「わたしたちの考えのどのあたりに共感を感じられたのですか?」
 普段なら新しい同胞は何も言わずに大歓迎する川岡が、珍しく意地悪な質問をした。
「ぼくも田舎に生まれたばかりにつらい思いをしたことが何度もあるんですよ。そやから、そのつらい経験を解決しようとする地差連さんの活動に参加したいと思てます」
「つらい経験とはどのような?」
「そうですね、子供のじぶんは田舎のほうが遊べるところがあってええと思ったこともありますけど、色気づいてきた中学以降はやな思い出ばかりですわ。たとえば、都会の中学校の男子の髪型は長髪なのに、うちらのような田舎は丸刈り、坊主ですわな、そう決まってたんですよ。田舎に生まれたばっかりに髪伸ばすことすら中学時代はでけへんでした」
 最近では少しずつ改善されてきているが、この問題はぼくも川岡も経験している。田舎に生まれたがゆえのインフラの不整備である。同胞の中には、となりの中学だったら長髪だったのに自分の中学は丸刈りだったというベルリンの壁を彷彿とさせる悲劇もある。
「なるほど」
 ぼくは声をあげた。関西弁を喋るわりには、お主、なかなかやるな、である。
「自分自身の問題では、ぼくは大阪の高校へ進学したんですが、他県の人間へはいろんな人がそれだけの理由で冷たかったことですかね」
「大阪のご出身ではないんですか?」
 川岡が訊いた。ぼくも川岡も関西弁を喋っているというだけで、てっきり彼を大阪の人間だと思いこんでいた。内心でぼくは自分の無知な偏見を恥じた。
「ええ、和歌山です」
「そうですか」
 川岡は感心したように頷いた。和歌山、その響きは満足できる田舎臭さだ。
「田舎におったときは、まわりも田舎者だから個人的にはつらくなかったんですが、田舎からひとりで都会の学校行きますとね、いろいろやなことがあるんですよ」
「どんなことですか?」
「いちばん悲しかったのは担任の先生に、和歌山から大阪に入るのはパスポートがいるんやぞ、って言われたときです。言った先生もクラスのみんなも、それを聞いてゲラゲラ笑ってました。軽いジョークのつもりだったんでしょうけどね、高校生の感じやすい心には傷つきますよ」
「その話、ぜひとも今度の学習会で発表してくださいよ!」
 川岡は握手を求めるために右手を出した。ぼくは、入会の用紙を棚から出す。竹内は照れて笑っていた。
 竹内は、いまでは地差連になくてはならない存在だ。組織内最年長という年齢もさることながら、ぼくや川岡のように高校を卒業してからはじめて都会の風に触れた人間と違って、高校から大阪という都会で揉まれているので世間ズレしている。地方出身者でありながら、都会のルール、都会の人間の気持ちもそこそこに理解しているのだ。その知識は地差連にとって大きな武器だった。
 報告を終えた竹内はしゅうゆをがぶ飲みしたような顔をしていた。担当者がめっちゃバカでした、その捨てぜりふに竹内の気持ちがすべてこもっていた。その気持ちはぼくにも伝わった。ぼくたちは、自分たちのいるつらい位置を改めて思い知らされていた。
「竹内さんでも玉砕でしたか……」
 川岡は竹内が世間ズレと関西弁によって交渉上手なことを見こんでいた。その竹内が結果を出せなかったのは、川岡にしてもつらかったのだろう。こんなことなら、他の、もっと簡単に謝罪しそうなところに竹内を送り込めばよかった、と後悔しているに違いない。
「また、来週、新しいのが出たらチェックして、電話してみますわ」
 竹内は報告につけ加えるように言った。よほど悔しいのだろう。
 川岡はそんな竹内を抑えるように言う。
「まあ、あんまりむきにならないでください。新しい価値観の提示ですから、どんなに説明しても理解できない人もいるでしょう。相手に依怙地になられれば、差別を助長します。ただ、わたしたちの考えを伝えた、それだけでも素晴らしい行動ですよ」
 竹内は、差別的な表現があれば電話を入れるだけです、と言って座った。
 それからも報告会は進んだ。終始和やかな雰囲気だった。いい結果を出せなかった同胞に対して、文句を言う人間もいなかった。実際に差別を受け、差別について学習している人間が、差別をなくす活動で手を抜くはずがないことをみんな知っている。
 各同胞の報告によると、さすがに回収をとりつけた同胞はいなかったが、謝罪の意志を表明した編集部が二つ、もう一度話し合ってみると言った編集部が三つと、抗議の電話をした編集部の半分近くが何らかの対処をしてくれていた。これは予想以上の成功である。電話をした十三の編集部のうち、ひとつでも謝罪してくれればいいと思っていたからだ。
 これが地差連最初の外部への作戦の結果である。


 学習会は月二回、隔週火曜日に午後四時からベースで定期的に開かれる。内容は、ひとりの同胞が、人口の少ない地方出身者への差別の現実について話すことが多い。
 今週の学習会で、山田がはじめて発表した。山田は、川岡が目をつけスカウトした逸材だ。山田は見事に、その川岡の期待に応えた。
「自分が発表したいのは、東北の農村全体に言える差別です」
 その日の出席者はぼくや川岡を入れて九人だった。全員が大学の授業では見せない真剣な表情で、山田を見つめている。ノートをこまめに取る奴もいれば、山田から目を逸らさない奴もいる。
「自分が生まれた青森など東北の各県の農業は、雪が降るので冬は仕事ができません。最近では米の品種改良などで少しは楽になりましたが、まだまだ、夏の収入だけでは生活していくことはむずかしいです。そのおかげか、みなさんにも東北には貧しいイメージがあると思います」
 ぼくは頷いた。見るとみんなが、山田の言葉とシンクロして首を縦に振っている。東北に貧しいイメージがあるのは事実だ。同じ雪が降るところでも、北海道はそうでもないのだが、ぼくは知らず知らずに東北を差別していたようだ。自分の差別心に問いかけるのも学習会の大きな意義である。
「それで、東北の農村の人間が冬に仕事がないという弱みにつけこんで、東北の農村の人たちは東京などの都会へ出稼ぎに行くのです。自分の家を空けて、東北の農村の人たちは、よく知らない都会へ仕事に行かなければならないのです」
 それから、山田は急に語気を荒げた。
「出稼ぎと言えば聞こえはいいですよ、そりゃ。でも、あの実態は強制連行です。ひとくちに仕事と言っても世の中にはたくさんの仕事があります。人がしたがる仕事、したがらない仕事。そして、人がしたがらない仕事でもしなければ世の中というものは成り立ちません。そのため、都会の人間は、青森の農村の人たちに人がしたがらない仕事をさせているのです。それをやらないと、自分たちがやらなければならない羽目になるから。出稼ぎ者の多くは、冬の土木作業をやらされています! 屋外で寒空の下、きつい肉体労働をやらされているのです。そしてなんと、専門家でもないのに危険な仕事に就かされて命を落とした方までいらっしゃいます! 家族にひもじい思いをさせたくないなら、都会に出て寒い中で危険な仕事をしろと言われて、連れて行かれて命を落とす。こんなことがいまも起こっているのです! たまたま、東北の農家だったというだけで、本職とは関係ない仕事をやらされているのです!」
 山田の目は潤んでいた。出席者の誰もが憤りを感じていた。出席者は全員が、都会の事情で地方が動かされることが許せない人間ばかりである。
 東北の農家の人たちが受けている差別は、半端じゃない。
 出席者の顔には、全員が全員、その感情が現れていた。
 川岡は地差連を設立する際に、どうすれば同胞に自分が被差別者である事実をわからせることができるだろうか、悩んでいた。当時、実際に差別を受けている地方出身者でも、自分が差別されていると思っていなかったからだ。田舎者とバカにされても、まるで気にしてない。当時はぼくでさえ田舎者と呼ばれても他の言葉で言った相手に言い返していた。しかし、他の言葉と違って田舎者は、自分ではどうすることもできない差別語なのである。たとえば、デブとか不潔なんていう類の相手をけなす言葉なら、自分で努力をすればなんとかなる。だが、田舎者は自分で努力をしてもどうにもならない。田舎で生まれた、それだけで、田舎者は一生差別される宿命を背負っている。その現実を、同胞に伝えるために、川岡は学習会を思いついた。自分たちがどのように差別されているかを知ることによって、差別を顕在化させ、同胞に差別と闘う気持ちを高揚させるのだ。
 山田の発表が終わった。拍手が起こる。山田はニコリともせず、真っ赤な目のまま頭を下げた。
「よかったよ、山田くん」
 椅子から身を起こして川岡が言った。いつもの段取り通り、川岡のまとめがはじまる。川岡は前日に発表者と発表内容を打ち合わせして、まとめで言う原稿を書いてきている。
「東北の農村の人への差別について、差別者であることに無自覚な連中は、それなら東北に住まなければいい、農家にならなければいい、と言うかもしれません。だけど、そう簡単にはいかない事情だって当事者にはあるはずです。もちろん、本人の意志でそれを拒否することも可能だろうが、生まれた土地に住みたいと思ったり、先祖代々続いている家業を継ぎたいと思う気持ちは異常でしょうか? 普通の人間の感情でしょう。だけど、東北の人はその感情すら持ってはいけないとでも言うんだろうか。まったくひどい話です」
 差別は、差別される側に問題があるわけでなく、差別する側の差別意識にこそ問題があるというのが、川岡の持論だ。だから、川岡の言葉は差別者へ対して攻撃的になってしまう。出席者は、この川岡の攻撃的な言葉を聞いて、差別者へ怒りを募らせ、腹を立てて帰るのが常だ。
「そのうえ、許せないのが強制的に人がしたがらない仕事をさせることです。それによって、命を落とした方までいるとはなんたることでしょう! 雪で仕事ができない地理的不利があるというだけで、どうしてここまで追いつめられなければならないのか? わたしには理解できません。みなさんもそうでしょう!」
 そうです、そうだ、と川岡に同調する声が出席者から起こる。
「このような都会の事情で、地方の人間が利用されるのは許されない! この問題はこれからももっと考えていきましょう」
 一斉に拍手、剥き出しのコンクリートに反響して八人とは思えないほど大きな音になる。
ぼくは拍手の中、言いようのない不快感を感じていた。強制連行、差別によって死んだ人、内容が刺激的なだけに共感を持ち難い。むしろ、話が大袈裟なぶん、脚色されているような気もする。すねかじりの山田が直接受けた差別でもないわけだし。
 だが、川岡は絶賛している。同胞たちも絶大な拍手を山田に送っている。
 ぼくだって、山田の発表に世の中の矛盾を感じたのは事実だ。しかし、素直に感動はできなかった。
 もしかしたら、ぼくは自分の地差連の立場を山田に脅かされることに、一抹の不安を抱いて山田の活躍を認められないのかもしれない。
 そんなことない! と思いたいのだが。


 学習会のあとは、川岡と二人で駅前にあるチェーンの居酒屋へ行くのが恒例である。ぼくは勝手にこうやって川岡と二人で飲むことを地差連の水面下での幹部会議だと思っている。地差連の活動は、ぼくと川岡の酒の席での会話から発展したものか、川岡がひとりで思いついたものかのどちらかだ。ダサい糾弾一斉作戦もアイデアは酒の席で生まれ、実行日は川岡がひとりで思いついた。
 ぼくも川岡も未成年であり、しかも酒には滅法弱い。だが、ゆっくり話をするときは酒を飲みたくなる。喫茶店のコーヒーじゃ、バイトの打ち合わせみたいで気楽になれない。
 案内された掘り炬燵式のテーブルに向かい合って座り、生ビールを注文した。身分証明書の提示を求められやしないかと店員の顔を上目遣いに見たが、この店でそんなことはこれまでなく、今日もなかった。
「差別を許すな」
 冗談めかしてそう言って、二人で乾杯をする。飲み慣れてない苦いビールを口に注ぎ、喉を潤す。時間が早いせいか、客は少なく、となりのテーブルも空席だ。
「ダサい糾弾一斉作戦は、まあ、うまくいったよな」
 川岡は上機嫌に言った。ぼくは相づちを打つ。
「やっぱり、差別って強いね。おれが電話したとこも、差別って言うと相手の態度が変わったもん」
「いくら鈍感な奴でも、差別に対しては敏感だからな。差別に鈍感だったら人間としてはダメだって価値観があるおかげでね」
 川岡がぼくと飲みに行くいちばんの理由は、本音を話せるからだ。差別を糾弾する活動は、正義と純粋が前提だから、小狡かしい計算など同胞には言いにくい本音もある。
「敏感だね、本当に」
「そう。だから、そのへんをもう少し突けば、まだまだ組織を強くできる。差別問題ってのはしょせん感情、数字とか目に見えないから、やりやすい」
「うん。感情に訴える、そうだ」
「だから、まあ、理屈が少々強引でも許されると思うんだよな」
「差別されて傷ついてんのは事実だからか」
 店員がつまみを持ってくる。厚揚げ豆腐と串かつ盛り合わせの二品、川岡は箸を割って厚揚げ豆腐を口に運ぶと箸を皿の端に置いた。それから、ビールをまた飲む。ぼくは串かつを串からばらして、小さいかけらを一口食べた。
「たとえばさ、今日の強制連行、これなんか強引でもうまくカミングアウトさせたい」
 川岡は山田を高く買っている。ぼくは、不愉快な気分になった。思わず、瞬間的に反発してしまう。
「だけど、あの話、ちょっとオーバーなんじゃないの。強引にやったらまずいと思うな」
「石崎はそう考えるか」
 川岡は唸りながら下を向いた。これは川岡の考えるときの癖だ。川岡に目線を外されて、手持ち無沙汰になったぼくはタバコに火を点けた。つられて川岡もポケットからタバコを取り出す。
「たしかに、山田の強制連行という言葉にはインパクトがあるよ。ショッキングだと思う。でも、それだけの気がするんだ。事実関係もよくわからないし、山田が実際受けたわけでもないしね。だから、下手に首つっこまないほうがいいと思う」
「自分たちが受けてる差別じゃないから見過ごすというのはいかんだろう。人が死ぬほどの差別が存在するならば、糾弾するのがおれらの義務じゃないか。そんな、自分に関係のない差別だから黙認するという姿勢が、昔からの差別を助長しているんじゃないか」
 話しているうちに川岡の口調がきつくなる。ぼくのジョッキも川岡のジョッキもビールが半分ぐらいなくなっている。ぼくらにしてみれば、酔いがまわる量だ。
「でも、山田言ってたじゃん。米の品種改良で楽になったって。それでこれからいい方向になれば問題はないわけで、糾弾するほどのことでもないんじゃない」
「いや、たとえいまはもうそんなことはなくても、そういう悲惨な過去があったなら目を向けなければいかん。強制的にしたくもない仕事をさせられて、そのうえ死人まで出てるんだぞ。それを見逃しちゃいかん。もし、よくなったとしても二度とそういうことが起こらないように追求すべきだ。おまえが協力しないのなら、山田と二人でやる」
 ぼくは口篭った。強制連行どうこうよりも、ぼくを置いて山田と二人でやると言った川岡の言葉が剃刀のように心を引き裂いた。
「わかったよ。そこまで川岡が決意してるのだったら、手伝うよ。なんだかんだ言ってもおれは川岡に付いていく気なんだからさ」
 口調が甘えるような響きになっている。川岡は苦笑とも微笑ともつかない笑顔をニタリと見せた。
「ありがとう。がんばるぞ!」
 力強い声で言う。地差連の方向はいつもこうして、最終的には川岡の思い通りに決められる。ぼくは別にそれに不満はない。組織のリーダーは川岡だし、何よりもぼくが川岡の発想が好きだからだ。


 ネオンテトラが大量に光る水槽が、鈍い水音をたてている。
「石崎さん、お疲れさまです」
 美樹は靴を脱いでふたつの椅子を使って足を伸ばしていた。手には店のハンバーガーを持っている。
「お疲れさま」
 ぼくは空いている椅子に座った。トレイをテーブルに置いてアイスコーヒーを一息に飲む。熱い鉄板の前では、喉が渇くのだ。
 バイトの休憩時間は解放感とうしろめたさが混同している。
 バイトをはじめたとき、ぼくは驚いたものだ。それまで、いくら学校や塾や自宅で勉強してもせいぜい受験に合格してお祝いを貰うぐらいで、努力が直接お金に替わりはしなかった。むしろ、子供の頃から母親の雑事や庭の草むしりをやるのに、お金目当てでやるなと言われたほどである。しかし、バイトは自分の努力がそのままお金になる。ぼくは、同じようにいやいやな気分でやる努力なのに、そこから得られる金銭的な結果の違いに驚いた。
 だからバイト中は、拘束時間に一歩ずつ歩くたびに、その歩みがそのままお金になるような錯覚にとらわれてしまう。
 そして、休憩時間でもそれは変わらない。持ち場を離れ、裏の控え室で食事や喫煙をしている時間さえ、時給に入っているのだからなんだか落ちつかない。休憩時間の過ごしかたにもマニュアルがあるような気がして、自由にくつろげない。
 自由にくつろいでいる美樹は、ネオンテトラに餌をあげている。ここのネオンテトラはすぐに死ぬ。従業員が餌をやりすぎるのだ。当番を決めて、誰が餌をあげるか決めればいいのに、誰もが好きかってに気が向いたときに餌をあげている。そのくせ、死体は三日ほど浮いて異臭を放っていても、誰も気にかけない。
「石崎さん、一本貰います」
 トレイの側に置いたタバコに美樹が手を伸ばす。美樹はたしかまだ高校生だが、タバコをくわえても誰も何も言わない。都会の、はすっぱな女はこんなもんだろうとぼくは思っている。そんな、ぼくも未成年だったりするのだが。
 ぼくが、いいよと言うと、美樹は慣れた手つきでフィルターを唇で挟み、素早く火を点けた。
 よく考えたら密室に女の子と二人なんだよなあ、ぼくは思った。だが、美樹を見てると女という気がしない。電車に乗って美樹とそう年格好の変わらない女子高生には、かわいいなあと女を感じることもあるが、美樹にはないのだ。同じバイトの子、そんな彼女の本質がぼくに刺激を与えないのかもしれない。
「今日もバイト行く前、親と喧嘩したんですよ」
 美樹は田舎臭いぼくに安心しているのか、よく自分の話をする。一緒にハンバーグを焼いている蓑嶋という男が、おまえだったら美樹は落とせるんじゃないかと言ってたが、もちろんそんな親しさがあるわけではない。ただ、ぼくを男と見てないからスキを許しているだけなのだ。
「就職はどうするんだって言われたから、適当にバイトでもして喰いつなぐよ、って言ったら、甘えてるだって。だけどさ、うちの社員とか見てると、就職したほうが会社に甘えてると思いません?」
 ぼくは曖昧に笑った。美樹の背中ではネオンテトラが群れになって青白く光っている。
「どうなんだろうね」
 美樹は、ああむかつく、と言ってタバコをもみ消した。
「石崎さんは高校を卒業するときに親ともめました?」
「そうだなあ。進路は進学だったからそこまではなかったけど、おれ田舎で長男だったからさ、東京へ行くってのにはもめたなあ」
 そうだった。ぼくは自分から東京へ行きたがったのだ。反対を押し切って東京へ出たのだ。そこまでして、都会で暮らしてみたかったのだ。
「六大学とか行くなら親も何も言わないけど、そこまでおれは優秀じゃなかったからさ。地方でもそんなにレベルの変わらない大学があったんだよ。なのに、なんで東京へ行くんだって」
「大変だったんですね」
「それなりにね」
 ぼくはタバコをくわえた。美樹がからだを寄せて火を点ける。だけど、何もドキドキしない。
「でも、そういうのがあったから、田舎でくすぶらずにすんだんでしょうね」
 ぼくは美樹に地差連で糾弾している差別者を感じることがある。都会で生まれ育った人間の傲慢と無頓着。どうして、田舎にいればくすぶると行ったこともない土地のことを決めつけるのだろう。
 だが、それをいちいち指摘する気はもちろんない。
「そうだね、喧嘩でもそうだけど、しなきゃいけないときにしとかないと、あとで後悔するよ。衝突を避けたい気持ちはわかるけど、衝突しないと得られない」
 美樹との衝突を避けて、衝突の重要性を説く。適当な相づちを打っている美樹の顔を見たくないので、灰皿を見る。きっと、美樹にはぼくが下を向いて何かもごもご話しているように見えるだろう。
「そうですか。そういえば、いつも親を無視してますね、あたしなんか」
「一回、きちんと話してみればわかりあえるかもしれないよ」
「ありがとございます。いつも相談にのって貰って」
 美樹としては礼儀上、そう言う。ぼくが灰皿を見ている間はつまらなそうな顔をしていたのが想像できるが、さすがファーストフードのカウンターのおねえさんである。嬉しそうな笑顔を見せている。
 ぼくの意見なんか美樹にとって役に立つわけがない。自分の経験から思ったことを話すだけなのだから。
「あとは自分にあったやりかただから、おれに惑わされず好きなようにやりなよ。じゃあ、おれ先に行くね」
 時計を見ると、休憩終了の五分ほど前だった。ぼくは制服の乱れを鏡で直して、いつものように早めに持ち場に戻った。こんなにきちょうめんに時間を厳守する男なんてダサいと美樹は思ってるだろうな、なんて考えながら。

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