解 放

 倉庫の中は、うっすらとした黴の臭いがする。
 たしかに、消したはずなのに。
 少女はずっと前に、ひとりの男を殺した。
 許せない者は消す。
 少女が自分を殺さないために、選んだ道はこれしかなかった。
 死ぬのはちょっとも怖くない。むしろ、死んだほうが気楽になれるような気がする。自分がなくなるのだから。
 だが、少女は自分を愛してくれている人たちを知っている。彼らは、常に重い荷物を少女に持たせていたが、少女も彼らを愛していた。
 愛すべき人々にも自分があることを少女は敏感に察知している。もしも少女が死んだら、愛してくれている人たちの心は変容してしまうだろう。いままで好きでいてくれた人を、嘆かせてはいけない。だから、許せない者を消したのだ。
 他の人たちから自分が苦痛を与えられているのを見て、愛してくれている人たちはどう思うだろうか。心配しないだろうか。哀しまないだろうか。少女はいつもそんなことばかり考えていた。
 少女がそう考えているとき、愛してくれている人たちの顔の中に両親の姿はなかった。両親は昔と変わらず少女を愛していたが、いかんせ彼らは大人だ。
 大人は残酷だ。傷つかないダイアモンドでも、磨かなければ光らないことを知っている。
 少女が痛みと呼ぶものが、少女に輝きを与えるのなら、少女が打ちのめされてもかまわないと両親は思っていた。
 死んでしまえば終わりだなんて都合が生きている人間にはないように、大人になったらどんな痛みも美しい記憶の雫になるなんて言えない。真剣だから少女には言えない。
 空気が蒸し暑い。少女は冷たいコンクリートの床に寝そべった。少女の体温で温まれば、転がって冷たい場所を探す。ささやかだが、貪欲に自分の望むことができる。自分の意志で、好きな場所へ移動できる。
 少女は起きあがり、服を脱ぐことにした。コンクリートの冷たさを全身で浴びたい。
 ところどころ細糸が切れている、黒のシフォンベルベットのワンピース。柔らかいから糸は細い。細いから糸は切れる。柔らかいから、シフォンベルベットは弱い。
 少女は下着もとって裸になった。コンクリートに当てると、肌は尖り、一瞬にして鳥肌を立てる。
 だれも少女をとがめるものはいない。なにをしても許される。
 煮詰まりすぎていた毎日、なにもできないダメな自分、泣いたっていいやと、どうして思えなかったんだろう。すごく泣きたかった。泣くことが心地よいのも知っている。
 だが、少女は泣けなかった。
 人前で泣けば、愛してくれている人たちはまちがいなくあわててしまうだろう。好きになってくれている人たちに、余計な負担を少女はかけたくなかった。
 もし、傷つける者の前で泣いたとしたら、彼らは「泣いて、すむわけないのに。これだから女は困る」と更に少女を傷つけただろう。少女に心があるのも忘れているかのように傷つける者たちに、少女は泣くことによって心の存在を伝えたかったのに、その存在自体が否定されてしまうのだ。
 だけど、少女はひとりではぜったいに泣けないことを知っていた。ひとりで泣けば、そのあと襲う寂しさで気が狂ってしまう。
 胸が苦しくなってきた。せっかくここまできたのに、そんなことばかり考えてしまう自分を少しだけ呪った。
 目を瞑る。明日もなにもしなくていいのだから無理に眠る必要はない。しかし、少女は寝たかった。ここにたどりつくまでの疲れを、ゆっくりと癒したかった。少女はとにかく疲れていた。
「おい、おい……おい」
 激しく頬を叩かれて少女は目を醒ました。少女はいままで何度か頬を叩かれたことがある。だが、いま叩かれている感触は、いままでのどの感触とも違った。いままでのは、少なからず憎しみの味がした。だがいまは、優しさのような、安心させる味がする。だから少女は、瞼を開いた。
 霞の外にはひとりの少年が、心配そうに少女を見ていた。焦点があってくるにしたがって、少年の顔がはっきりと見える。
「よかった、生きていたんだ。裸で女の人が寝てるから、死体かと思った」
 少女は自分が裸だったことを思いだした。いつか自分にも男に全裸を見せる日がくるとは思っていたが、まさかここでこんなことになるとは思っていなかった。しかし、不思議と恥ずかしさはない。座ると尻のところだけ、やけに冷たいが。
「大丈夫ですか? びっくりしたよ!」
 少年の明るい口調のおかげで、少女はすぐにこの少年にとけこめた。
「あなたも疲れているの?」
「あ、おれ? かなり疲れているよ。まわりからはそんなに思われていないようだけど、死にたくなるほど疲れてる」
 それはそうだ、じゃなきゃこんなところにはこない。
「ならば、もう明るいふりをしなくてもいいのよ。ここはね、そんなふりをしなくても生きていけるところなの」
 少年は目に涙を溜めて微笑んだ。それから訊きにくそうに、少女に尋ねた。
「どうして、裸なの」
「どうして、あなたは裸じゃないの」
 たしかに少女は、コンクリートの冷たさを全身に浴びたくて裸になった。お気に入りのワンピースも着たまま眠って、汚したくはなかった。だけど、それ以外に、もっと重要な裸になった理由があるような気がするのだ。なにかに縛られたくなかった衝動に近いような、それでいてもっと深いようなものが、裸になった理由としてどこかにあるのだ。
「あなたも裸になりなさいよ」
 少年は素直に裸になった。
 少年の裸はひどくきれいだ。少女はすぐにでも、その裸に手を触れたくなった。少年がいないのなら、手を触れたいと思った。しかし、目の前に少年はいる。そして、少年がいなければ少年の裸は手の届く距離にはないのだ。
 少年もとうぜん、少女の裸に見とれていた。一度は死体かもしれないとまで思った裸体だが、少女のからだが確実に生きていることを感じさせるたびに、少年は少女の裸に手を伸ばしたくなった。
 少女が口を開いた。
「あなた、キスをしたことある?」
 少年は驚いたように少女を見た。ほんのりと頬を赤くしているが、その赤さは恥ずかしさからくるものではなかった。少女を前にしているからだ。
「ないよ」
 赤い顔のまま答えた。だが、照れてはいない。
 少女も少年も自分がなにをしたいのか、わかっていた。ふたりは口唇をあわせ、抱擁をはじめた。冷たいコンクリートの上を、裸のまま、しっかりと抱き合い転がる。胸が高鳴り、体中が汗にまみれる。だが、心が満足していないことが、少年にも少女にもわかるのだ。
 少女は、少年に罪悪感を持たせることを極度におそれていた。
 少年は、少女に叫び声を立たせたくなかった。また、怪我をしたわけでもないのに出血させることもおそれていた。
 だから、ふたりにはこれ以上のことができなかった。それを口に出すことも恥ずかしかった。ちゃんとしたやり方もわからなかった。
 肌と肌は、汗が混ざるほど密着している。感触をたしかめるように、手で撫であう。だが、相手の肌を触れば触るほど、少年も少女も、胸の奥で鎖が暴れ出すのを気づかずにはいられなかった。

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