スウェイ
ポケットに突っ込んだ携帯電話のバイブが震える。右太股に、何やらいやらしい震動が走った。ぼくは電車の中で電話をかけるような恥ずかしい人間ではないが、発信した人物を確かめるために携帯をポケットから取り出した。電話が鳴っているわけではなく、メールが届いている。
「若い女の小便を浴びたい。午後二時三〇分前後に産山駅で急行待ちの各駅停車樽狗行き、三両目の二つ目のドアのところにて待つ」
仕事だ。客はシロウト女の小便が、ボーヌ・ロマネ・ラ・グラン・リュのつぎに好きな二十歳すぎのボウズだ。こいつはどうしてこんなに金を持っているんだろうと驚くほど、金を持っている。一度訊いたら「『競馬が簡単に当たる』という本を買って以来、競馬で連戦連勝して金が余っている」ととぼけていたが、もしかしたら本当なのかもしれない。本屋でそういう本を見つけたとき、ぼくみたいな凡人は「本当に当たるのなら、わざわざ本に書いて人に教えたりしないだろう」と思うが、あの手の本は実際はすごく良心的で、読んだだけで競馬で勝てるようになる秘訣が載っているのかもしれない。ぼくたちは試しもせずに物事を判断しすぎだ。実証してこそ真理、ということもある。
時計を見た、一時を少しまわったところだ。時間はある。そして仕事もある。ぼくは電車を産山方面の急行に乗り換えた。一時半少し前に産山に到着、乗越精算械で精算してから自動改札を抜ける。行くところは決まっている。時間があるのだ。そしてこの後の仕事で金が入る。ぼくは駅の裏通りのファッションヘルス『女護が島』へ、チンポを立てながら歩いた。『女護が島』は名前はダサイが、女はいかしている。ちんけな店だが、だからこそ客の品もいい。
昼間の『女護が島』はまっ黄色の悪趣味な小屋にしか見えない。看板のまわりに色をつけられた電球が赤と青、交互に並んでいる。この電球は夜光っても、また昼間に雨風に吹かれていても、どちらにしろ、店を安っぽっく見せていた。ぼくは閉店しているようなドアを開ける。安っぽい店と同じく、どう見ても安っぽいヤクザの親父がいる。北島三郎のようなパンチパーマに、子供が墨で書いたような口髭、ひどく醜い人間だ。
「いらっしゃい。よっ、毎度」
「毎度はねえよ、おっさん。いつも来てるみたいじゃねえか」
「いつも来てるじゃん。おれが店番してるときはよく見るぜ」
親父はどうも昔ヘマをしたか、それとも借金があるのか、一日中この店で店番をしている。年中無休、十六時間労働。楽しみは店番をしているときのテレビだけ、親父はいつか頭を掻きながらそう笑った。
「女の子、誰がいる?」
「いまは試験中じゃないから、若い子はあんまりいないんだよ。いま、空いてるのはこの子とこの子とこの子の三人」
写真には二十二歳と二十三歳、そして二十八歳の女が並んでいる。年齢は自称かもしれないが、写真で見る限り十分に若い。この店では「若い子」とは、十代の現役中学・高校生のことだ。ぼくは三人の中で最年長ながら最も若く見える二十八歳の女を指差した。
「年増だけどいいの?」
「でも、こいつがいちばんマシだ。あとの女は口がでかすぎる。口がでかいのがかわいいのは、十代までだからな」
「わかったわかった。蘊蓄はいいよ。それでショートとロング、どっち?」
時計を見た。一時四十五分、ぼくは迷わず三十分のショートを選んだ。
それから親父は、他に誰もいないのに習性なのか小声になる。
「本番は?」
「今日は遠慮しとくよ。ヌケればいい」
「では、三番の個室へどうぞ」
金を払い、三番の個室でいざ御対面である。あの親父がぼくにハズレをつかませるとは思わないが、ぼくはまだ見ぬ女に不安を覚えていた。このような女の価値は、結局、顔が綺麗か醜態か、それで決まる。いくらテクがあろうとも、醜い女とはやりたくない。逆に何度も歯を当てるような下手糞でも、綺麗ならば男は夢中になるものだ。
三番の扉をノックする。返事があり、女がうやうやしく扉を開ける。
「カナエです。お願いします」
悪くない。ぼくはカナエを見て思った。茶色がかかったストレートヘアーに、細く切れかかった眉毛、目は整形の臭いもするがとりあえず二重で、鼻筋も通っている。
さあ、カタくなったものをほぐしてくれ。
ぼくはカナエの口にチンポを差し込んだ。カナエは目を瞑り、頬を膨らませる。気持ちいい。シャブがなくても気持ちいい。
ぼくは産山駅で約束の電車が到着するのを待っていた。喫煙コーナーでこそこそとタバコに火をつける。
「わたし、アイスクリーム屋さんになりたかったんです」
カナエの舌使いを褒めてやると、彼女は敬語で言った。さすがに二十八歳にもなれば、誰に対してもタメ口をたたくガキとは違う。
「アイスクリームがすごく好きで、それも家で食べる棒アイスじゃなくて、ソフトクリームみたいなコーンに乗っているアイスをなめるのが好きだったんですよ。それでいっぱいアイスを食べれるかなと思って、アイスクリーム屋さんになりたかったんです」
そう言った直後、カナエが「どうしてこうなってしまったんだろう」とわざとらしく言った。
ぼくのまわりにいる虫けらのような連中はみんなそうだ。「どうしてこうなってしまったんだろう」という後悔だけで生きている。もがけばもがくほどたくさんのものを失って、貧乏くじを引きつづけて生きている。カナエの汗はべとついていた。男の汚ねえ唾で穢れているのだ。いまでこそまだ羽振りのいい客に出会うかもしれないが、三十歳を過ぎれば温泉街で一見の観光客を相手にし、四十歳を過ぎれば浮浪者と見分けのつかない日雇い労働者が溢れるスラムで、アイスクリームとそう変らない金額で安売りされる。カナエの皮膚は、これからもっと汚ねえ男の唾液が待っている。
ぼくは自分の子供の頃の夢を思い出していた。小学校六年生の卒業アルバムに「公務員一種になりたい」と書いた記憶がある。ぼくは可愛げのないクソみたいなガキだった。大人たちは、子供らしさのないガキを極端に嫌うものだ。自分の醜さが見えるからだろう。ぼくはそんな大人たちにいつも叫びたかった。目を逸らすな!
午後二時二十七分、ホームに電車が滑り込んだ。各駅停車、樽狗行き。ぼくは三両目の、全部で四つあるうちの前から二つ目のドア付近で様子を見る。ドアが開くと、何人かの乗客が降りた。客は開いたドアのところで手摺を握っていた。裾の広いジーンズに、アメリカの大学名が書いてある白いトレーナー。キャップの下にはブリーチで抜いた茶髪が見え、耳には金のピアスが光っている。趣味が悪い。見るからにからまれそうなボウズだ。ぼくは声をかける。
「今週の本名馬はなんだよ?」
男は救われたような目をしてぼくを見る。
「今週? 日曜のメインはスーパーラクターですよ」
喋りながら男はぼくのバックのポケットに、ババアの小遣いのようにティッシュペーパーで包んだ金を入れる。ぼくはバックの中でティッシュを破り、紙幣を探る。触るだけで金額がわかる日本銀行券は大したものだ。
「スーパーラクターは四歳だな」
ぼくは小声でボウズに訊く。
「四歳です」
スーパーラクターは五歳だ。ぼくはバックの中で封筒に四パケ入れる。
「手紙だ。おまえに」
妊婦のように膨らんだ茶封筒をボウズに渡す。
「じゃあな。また、よろしく」
電車を降りる。ボウズは手摺を握ったままだ。ちょうどホームでベルが鳴り、急行樽狗行きが到着した。
ビデオデッキのイジェクトのボタンを押すと、テープの取り出し口からスズメバチが一斉に飛び出した。いい感じだ。ノレてきた。大人をショック死させるほどの毒を持つ蜂が、おれのまわりを飛び回る。バカでかい羽音はナマな族よりも耳障りだ。カリ、カリ、調子に乗って顎の音で威嚇までしている。
刺される! とっさにおれは思う。このままじゃやられる。蜂はおれのからだ中、隅々につかまり、柔らかい皮膚に針を刺す。
黄色い顔に鋭い黒い目、おれはオオスズメバチの精悍な顔が好きだ。都会で見かけるキイロスズメバチはアシナガバチを大きくしたようで迫力に欠ける。肉食の、血に飢えたオオスズメバチ。さあ、思う存分、おれを刺してくれ!
からだ中に激痛が走る。蜜蜂に刺されるような、針の突き刺さる痛みではない。刺された一部だけでなく皮膚全体を毟り取られるような痛みだ。全体が痺れていく。おれの意識と関係なく痙攣が起こる。おれは慌てて、用意していたゴム製のボールを口に咥えた。舌を噛み切らないために。
スズメバチは容赦なくおれを痛めつける。人を殺すことのできる虫、その虫がいまおれの全身を覆い尽くして、やりたい放題に刺しているのだ。これほどの快感があろうか。チンポが勃起する。勃起するにつれて、チンポを刺す蜂の数が増えていく。大きくなった証拠だ。
数分間刺されていると、麻痺していたからだの感覚が戻ってきた。はじめはチンポだ。尿道の奥から、えぐるような激痛が中枢神経に伝わった。
おれは急に頭にくる。なんで虫ごときに遊ばれなければならないのか。
「おまえら、ぶった切ってやる」
おれはわざと倒れて、寝返りを打つ。からだ中にとまっていたスズメバチが、ブチ、ブチ、ブチと潰れる。殺すなら一度に大量に殺したい。虐殺の発想だ。たくさん殺せば殺すほど、満足感は増大する。それもどうせ殺すなら、恨みがあったほうがいい。復讐のほうがいい。おれは思う存分楽しみながら、スズメバチを全滅させた。言いようのない恍惚感がからだを支配する。達成した感動が涙腺を危うくした。
しかし、スズメバチが死んでも痛みがなくなるわけではない。虫歯の痛みが骨の芯に乗り移ったような痛み。皮膚だけでなく、骨まで腫れている気もする。
アンモニアだ。おれの頭がひらめく。蜂の毒消しにはアンモニアだ。
若い女の小便を浴びよう。
歩いている見てくれのいい若い女に頼むんだ。おれはスズメバチにからだ中刺されて大変なんだ。アンモニアをかけてくれ! 君の小便をかけてくれたらおれは救われるんだ!
仕入先の担当者が、部長に会ってほしいとぼくに言った。しかも、場所は高級うなぎ店。表向きは卸先のぼくへの接待だけど、実質はシマをもらっているぼくが部長を接待するのだ。金はあちら持ちだけど。
高さ三メートルはあろうかというくすんだ板塀に小さな看板、木造平屋二階建ての古臭いうなぎ屋。入口にはえらいさんの乗りつける黒いハイヤーが何台も止まっている。ぼくはジーンズにスタジャンの出でたちで、このいかにも老舗の店に入る。広い玄関で値踏みをするようにぼくを見る下足番に、安藤部長の名前を伝える。上がり框で和服を着た中年の仲居が、慌てたように走ってきた。中庭には、松明に照らされた石燈篭が見える。
ひたすら腰の低いその仲居に案内され、安藤部長が予約している薄暗い和室へ入る。約束の時間の十分以上も前なのに、安藤部長はすでに部屋に座っていた。準備万端ってやつだ。
「商売はどうかね」
「雪ネタがいいんで、ばっちりですよ」
和室の奥にはもうひとつ和室が見える。古いうなぎ屋の特徴だ。昔はここに蒲団と高い枕が二つ置いてあったのだろう。いまではこういう奥の部屋は、単なる飾りだ。女を口説くにはうなぎ屋に限る、別れ話はカニ屋に限る、昔の金持ちはそうだったらしい。もっとも、いまでもこの店は政財界VIP御用達だが。
「そうか、それはよかった。いくら純度のいいものを輸入しても、売れなければわたしたちの努力も報われないからね。もっとがんばってよ」
料理を注文してから仕事の話を片づける。
大した話はしない。不況知らずのこの業界、手広く客を持っているぼくは部長の会社ではお得意様だ。もっとも、そうやって手広く客をさばけるディーラーにぼくがなれたのは部長のおかげだが。
うなぎの肝をあえた酢の物が運ばれてきた。ここから料理が一通り揃うまでは、気楽な世間話。だが、ぼくは気が抜けない
「いまの若いのはだめだね。楽しく仕事ができると思っている」
ぼくは声を出さずに肯き、酒を部長に薦める。
「普通の仕事ができないからってうちみたいなとこ来られてもねえ。こっちだって、遊びじゃないんだからね」
「そうですね」
部長が薦めた酒を一息に飲む。二間の和室に二人だけの空間。ぼくが部長の機嫌を伺っても、気が弱いということではないだろう。
「ドラえもんの作者が苦しんで秘密道具を考えた、と言ったら、ショックです、楽しく書いていたと思ったのに、だって。なめんじゃねえよ。人を楽しませるのと自分が苦しむのは比例するのにな」
「失礼します」
襖から仲居の声がして、白焼きが食膳に置かれる。部長の話が止まる。ぼくも仲居のほうに目を向けた。酒を追加して、部長が突然思いだしたように喋りだした。
「君は、坂本をどう思う?」
「坂本さんですか」
坂本はぼくよりいくつか下の部長の会社の人間だ。映像部門で最近、名を上げている。ぼくとはほとんど面識がない。
「よく知らないんですよ。何度か顔を見たことがあるぐらいですから」
部長は不満そうに唸りながら、何度も小さく首を縦に振った。隣りの部屋から芸者の声が聞こえる。
「そうか、うーん、そうだよな。知らないよなあ」
「たしか、映像のほうでしたよね、坂本さんは」
「そうだよ、そうなんだよ」
部長の声が一段と大きくなる。愚痴につきあうのもぼくの仕事だ。
「それがな、まあ、仕事はよくしてくれるんだ。企画もそこそこあたっててね」
「マスクファックシリーズは坂本さんですよね」
「そう、それと盗撮でも一本当ててる」
「例のテーマパークシリーズですか?」
「そう」
部長は無感動な声で言った。
「おれなんかにはどうしてあんなものが当たったのかわからんけど、大当たりだ。遊園地の公衆トイレで絶叫マシーンで失禁した女が下着を替えるのとか、アスレチックパークで水に落ちた女が着替えるのを盗撮する、あれだな」
話してる部長もぼくも関心のなさそうな顔をしている。ぼくにとって、坂本が当てようがこけようが関係ない。だが、部長は坂本の上司である。
ぼくは思わず、笑いがこみあげそうになった。わかったのだ、部長と坂本に何があったのかが。
「まあ、仕事はよくやるんだ、あいつは。だけどなあ、他のことに全然気がまわらないんだよな。だから、どうも、おれはあいつの仕事は買えない。よく仕事できるやつは、よく遊ぶもんなんだ。だけどあいつはな、仕事だけだろう。だから、買ってないんだ、おれはあいつを」
「そうなんですか」
ぼくは神妙な顔をして部長の言葉に耳を傾ける。ぼくは坂本のことを何も知らない。あいつが作っているビデオだって、名前を知ってる程度で実際に見たことはない。
「そうなんだよなあ、まったく」
そう言って部長は天井を見上げた。隣りの部屋からは三味線が聞こえる。
「それで、君のほうはどうなんだね」
「はい?」
予想したことだが、ぼくは驚いたふりをする。部長は横柄に笑う。
「新しいものばかり考えてもしようがないと思うよね」
部長の口調が急にねっとりとしたものに変った。
ぼくは部長の目に、鳥肌がたった。部長はなめるようにぼくを見ている。毎度のことだが、この瞬間ほどおそろしいものはない。
「この店だって、伝統を大切にしてるから客が集まるんだろう。そうだよね」
部長が正座しているぼくの膝を食膳の下から撫でる。
「ええ」
ぼくは普段通り答える。相手はするけど、特別な演出はしたくない。
「そっちへ行っていいかな?」
部長はそう言うと、返事も待たずに立ちあがった。ぼくは慌てて、隣りに座布団を用意する。
「足、くずしなよ」
ぼくは胡座をかく。すると、部長が手を股のところに持ってきた。
「君は坂本とはこのへんの人間の器が違うね。昔からな、おれらの業界はね、上司が雪は黒いと言ったら黒いと答える。そう決まってたんだ。なのに、坂本ときたら、自分はそういう趣味はないです、の一点張り。ったく、誰のおかげでビデオが撮れてると思ってんだ。別にそのけがなくてもいいんだよな。君だって、そういう趣味はないだろう」
「そりゃあ、どっちかって言うと女のほうが好きですよ。部長は別ですけど」
部長の酒臭い息を耳元で感じる。ぼくの左頬に部長の口唇が接触する。
「お世辞はいいんだよ。おれはね、そういう趣味じゃない子のほうが燃えるんだ」
部長が首に手をまわす。ぼくは部長の口唇に自分の口唇をあてる。酒臭い中年の息が鼻を曲げそうだ。大きな舌が口の中を探る。坂本が逃げるのもわかるような気がする。
十分ほどそうやって愛撫していただろうか。ぼくにしてみればものすごく長い時間だった。ようやく襖をたたく音が聞こえ、部長はぼくのからだから寂しそうに離れた。やっと解放された。ぼくは口には出さないが、心の底から仲居に感謝する。
「失礼します」
仲居がそう言って酒を持ってきた。それから他の仲居が重箱を運んできた。
「デザートはいらないから」
部長が仲居に伝える。部長は待ち切れないのだ。うな重喰ったら、さっさとやるところへ行きたいのだろう。
仲居が部屋を出たあと、うなぎをつつきながら部長が言った。
「やっぱり、うなぎは精がつくね。元気になっちゃうよ」
部長にケツを貸すのはいつものことだ。覚悟は決めている。ぼくには、部長に笑いかえす余裕まであった。
「今夜は楽しみだね」
ぼくは、はい、と元気よく答えた。
人を楽しませるのと自分が苦しむのは比例する。
仕事は儲かっていた。遊ぶだけ遊んでいた。女だって何人も泣かせた。だけど、ちょっとも楽しくない。
からっぽ、ってこういうことなんだろうか。何に脅えることもないのに、どこかで心が痛んでいる。
泣くこともできない。ひどく疲れている。ぐっすり眠ったあとなのに……。
隣りでは女がまだ、ぐっすり眠っていた。
きれいだ。女の顔を見てぼくは思う。金になる顔は、そこらの美人と比べても桁違いに美しい。
意外だったのは行為がハードだったことだ。人気絶頂のアイドルのこいつが、こんなに淫乱な女とは驚いた。ぼくは昨夜、確実に満足していた。だが、溺れて夢中になるほどのものでもないこともわかっていた。アイドルなど一度試してみれば興味は満たされ、それで十分だ。テレビに映り、カメラ小僧に囲まれている女がぼくを喜ばせようと必死になっているのを見てしまえば、もうそれ以上の面白味はない。
まったくよくやるよ。ぼくは眠っている女の顔を見て思った。女はスピードフリーク、すなわちシャブ中だ。
女はぼくの客のミュージシャンに紹介された。女をはじめて見たとき、子供ながらもその美しさには言葉を失ったものだ。しかし、もうそのときから女はクスリ漬けになっていた。
ぼくは女のような夢を叶えた人間が、人が羨む人生を送っている人間が、なぜクスリをほしがるのかわからない。クスリなんてゴミみたいな人間がやるものだ。華やかな世界でいちばんになった人間には似合わない。
女にもこの話をしたことがある。すると女はけろりとこう言った。
「世界一のビートルズも全員ヤク中だったじゃない」
ぼくにはわからない。ぼくは単なる薬売りだ。越中富山の出身ではないが。
女のブランドものの鞄から、携帯の着メロが聞こえた。ぼくは思わず、失笑する。着メロが女が出しているCDの曲だったからだ。一応、女の頬を軽くたたいてみた。女は簡単に目を開く。
「おはよう」
女ははっきりとした声で呟いた。寝起きのけだるさを感じさせない。顔も寝惚けてなくて、平然と貸してやったパジャマを直している。この年頃の女にしてみれば目覚めがいい。普段からたたき起こされているのだろう。
美しい、まぎれもなく美しい、ぼくは彼女を見ながらひとり悦に入っていた。本当に、どこかのCMで使えそうな「おはよう」なのだ。ぼくがいままで体験した中で、史上最強の「おはよう」なのだ。気になるのは女の寝起きの息が少し臭うことだけだが、人間だからしようがない。
「電話、鳴ってるぞ」
「いいの、うるさいから。うざったい」
いらついたように吐き捨てて、女はタバコに火を点ける。女はまだ十九歳だ。
「仕事の電話じゃないのか?」
「そうだけど、いいの。いつものことだから」
女はほとんど毎日テレビに映っている。多忙なはずだ。そんな彼女が、仕事の電話を無視すること自体、驚きだった。よもや、それがいつものこととは……。
「いつも仕事さぼってんのか?」
「まあ、たまに。時々、いやになんのよねえ」
「どうして?」
自分が望んでいる仕事をしている女が、どうして仕事をさぼるんだろう。やっぱり、人を楽しませるような仕事は苦しいのだろうか?
「わからない。ただ、いやなだけなの」
からっぽ、ってこういうことかもしれない。ぼくは思った。わからない、だけど心が痛んでいる。
何かを得るときっと何かは失うんだ。
意外に思われるかもしれないが、ぼくはクスリの経験がない。自分でやるようなクスリがあるならば、売っている、というわけだ。ぼくにとって、クスリはあくまで金の価値しかない。それ以上でもそれ以下でもない。
人気絶頂のアイドルとは、あれからやけに親しくなってしまった。あのときはただ、興味本位で誘っただけだったのだが、それ以降頻繁に女からのメールが届く。単純に商売のときもあれば、そうでないときもあるし、こういう言葉が適切かどうかは彼女に訊かないと本当のところはわからないが、デートだけのときもある。ぼくは一度やって以来、女を冷めた目で見ていたが、常に熱い視線にさらされている彼女のような女は冷めた目で見られることを好むようだ。ぼくとしてはやれるだけ得だから、彼女に誘われるとほいほいついていく。女が金をたくさん持っていたのも都合がよかった。
だが、女を好きになれない。これはぼくの悩みだった。やけに高尚な悩みだが、本当にそうなのだから仕方がない。人気絶頂のアイドルに誘われて、人気絶頂のアイドルといやらしいことができて、それでそのアイドルが好きになれないと悩むなんて贅沢なことだと思うが、かと言って惚れないものはどうしようもないのだ。
別に好きな女がいるわけでもない。どうも最近、ぼくは人間が好きになれないようだ。
女も一時期、人が好きになれなかったらしい。彼女の言葉を借りると「社会を知ったための人間不信」、デビューしてからのまわりの厳しい態度、そして売れてからそれまで厳しかった人たちが手の平を返したようにすりよってきたこと、その裏表が彼女を苦しめた。そんなとき、彼女はクスリをはじめた。
「クスリをやって幻覚を見ていると、人を愛せるようになるんだよ。人を好きになる気持ちってたまんないよね。だから、わたしはクスリが好きなの。クスリをやって人を好きになれてる自分が好きなの」
女は厭世的なことをぼくが呟くと、クスリを薦める。だけど、ぼくにはクスリができない。ぼくはクスリによってたくさんの人を地獄に突き落とした。クスリの怖さも死ぬほど知っている。
仕事のほうは順調だ。儲かりすぎるぐらい儲かっている。
すべてがうまく行っている。
だけど、空しい。
ぼくは生意気なガキだから、大人に嫌われた。中学生になれば大人に反抗するようになった。気がついたら、暴走族に入っていた。そして、気がつけば人を殺してた。
でも、それらといまの空しさは関係ない。ぼくはそう思っている。ここで変な因果関係を結んでしまえば、一生引きずらなければならない。それだけはいやだ。
漠然と毎日は流れている。生きる上では、なに不自由していない。
いったい、心はなにに支配されているのだろう?
なににビビり、なにに揺り動かされているか?
それとも、そんなことを気にしすぎているから心が空になってしまうのか?
わからないわからないわからない。
わかっていることは、ぼくが自分の手で漠然と流れている毎日の流れを止め、今日を大事に生きなければならないということだけだ。
明日の朝は早起きしよう。昼間に電気を点けなければ文字も読めないような場所は、意識して避けよう。天候に左右され、季節の匂いを嗅ごう。
一日一日が大事なんだ。